【2010年03月21日(日)】 東大寺@奈良 
大仏殿(金堂)と盧舎那仏坐像 
東大寺42b

万葉集『あをによし 奈良の京は 咲く花の にほうがごとく 今盛りなり』
三連休を活用して、結果的に四泊五日となる神戸&奈良巡りへの続き。

東大寺は今回で三度目の訪問となる観光スポットだが、その規模の大きさに毎回驚かされる。
造立の歴史的背景や、度重なる再建についての厳しい経緯を知った上で、
改めて巨大な大仏殿(金堂)盧舎那仏坐像をみると、実に感慨深い。

参道を南大門から中門へと進み、メインの大仏殿(金堂)へ。

参道を南大門、そして朱塗りの中門へと進み、巨大な大仏殿(金堂)へ。
中門の西側で入場料を支払い、回廊を先へ。
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回廊から。
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線香の煙が香る、中門正面からの眺め。
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柔らかな色の桜も綺麗。
小学生、そして中学生の頃にみた時より、大仏殿の大きさに驚いた。
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東大寺の
公式サイトによると、
室町時代末の永禄の兵火で大仏殿は失われ、盧舎那仏坐像も損傷し、
雨ざらしで御頭を欠いた痛ましい姿に。
江戸時代になり、公慶上人の御尽力で、大仏、そして現在の大仏殿を再興。
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NHKのTV番組『歴史秘話ヒストリア』や『45日間奈良時代一周』にて、
公慶上人について詳しく特集されており、以下抜粋。

その説明では、当時の大仏は百年もの間野晒で放置され、痛ましい姿に変わり果ており、
このまま朽ちていくと思われたのを救ったのは『少年時代の公慶上人の涙だった』、
との切り口で紹介が始まり、ここから壮大な大仏復活劇が始まったとのこと。
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奈良時代の創建以来、大仏は幾多の災難に遭ってきた。
中でも最大の危機は戦国時代後半のこと。
永禄10年(1567年)大和国の戦国武将・松永久秀が東大寺に敵が陣を構えていたところに夜襲を掛け、
大仏殿は炎上。
大仏は猛火で上半身が溶け崩れてしまったとのこと。

猛火 天に満ち さながら 雷電のごとく 一時に滅する
釈迦像も湯にならせ給う   多聞院日記

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翌年より地元の武将・山田道安が再建に取り掛かる。
しかし、資金が足りなくなり、頭は完全な銅製ではなく、
木造に銅板をはる応急処置だったとのこと。

更に織田信長や徳川家康も再建に乗り出すも、
本能寺の変や大阪の陣によって計画はことごとく中断されてしまう。
炎上から半世紀(江戸時代初期)、再建の熱が冷め、
屋根もなく、野晒のまま放置されていた。

炎上から100年、江戸時代も安定した頃、
長年放置されてきた大仏は痛ましい姿に変わり果てていた。
身体の至る所に亀裂が走り、顔の銅板は所々めくれ、下の木材が露出。一部は破損していたと考えられている。

そんな雨ざらしの光景をみていたのが、出家したばかりの少年僧、僅か13歳の公慶
成すべき仕事はいつの日にか大仏を修復し、大仏殿を再建してみせると悟る。

しかし、当時は東大寺の再建に積極的な者は少なく、ただ月日が流れてゆく。
公慶37歳の時、遂に動き始める。
貞享元年(1684年)江戸に向かい、再建資金を人々の寄付で集めようと幕府に協力を要請。
必要な資金は1万両(約10億円)と予想され、
何度も相談するも幕府の資金協力は得られず、勝手次第となる。
そこからたった独りで再建に向け立ち上がったとのこと。
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大仏の像高は約15mで、重さ約250t。
創建されて1250年、創建当初の奈良時代は全身「金」で覆われていた
平安時代初期には金属疲労で所々亀裂が入り始め、更に大地震で頭が落ちてしまう。
源平合戦の頃には平家の焼き討ちで、修復された頭や手が落ち、
戦国時代にも炎上して上半身が溶けた。

何度も修復を重ねた結果、
●下半身や台座の蓮弁は奈良の創建当時のもの、
●腰は鎌倉時代
●上半身は戦国時代
●頭は江戸時代という継ぎ接ぎの姿に。

創建当時とは異なる顔は、丁寧に磨かれて黒光りし、
お腹の辺りはモザイク状に修復の跡が組み合わされている。
更に腰には鎌倉時代と戦国時代の繋ぎ目が見える。
これは修復が1000年もの間繰り返されてきた確かな証拠であり、
継ぎはぎは大仏復活を願った人々の苦労を伝える貴重な記録と言える、とのこと。
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東大寺に残る公慶の像は左目が充血している、と紹介。
不眠不休で全国を行脚した公慶の姿を写したもので、
苦労を偲ばせるとのこと。
勧進(かんじん)は、人々の心を掴んだ全国行脚は大勢の人から僅かずつお金を集める行為で、
大仏本来の意味を公慶は実行。


盧舎那仏とは、輝く仏という意味で、
世界をあまねく照らすと華厳経に説かれているとのこと。
悟りをひらいたブッダの姿を表し、
宇宙全体を救いの光で照らす存在と云われている。

7世紀末、時の女帝・則天武后が洛陽の郊外に造らせた
17mもある龍門石窟 盧舎那仏の中国文化に影響されている。

創建当時の大仏の顔は今よりふくよかで、丸みを帯びていたようだ。
用いられた全身の金は440キロ。


バーミヤンの巨大な大仏(弥勒仏)について。
仏教の教えの中にヒントが隠されており、一般的な大仏の多くは弥勒仏(みろく仏)
何十億年先の未来に人々を救うために現れる仏とのこと。
その時の大きさ、弥勒仏の身長は釈迦の10倍だといわれている。
遠い未来に人々が救われる姿を今の世で見せる試みだと考えられている。

7世紀から8世紀に掛け、シルクロード周辺に続々と巨大な大仏が造られてゆく。
10mを超える仏像だけでも13体以上で、空前の大仏ブーム到来。

いにしえのオアシス都市、敦煌・莫高窟。600を超える穴に2400体もの仏像が造られた世界遺産。
巨大な穴の中にある弥勒大仏は、高さ33m、岩を荒削りにし、粘土で形作った。
空間を埋め尽くすような威圧感のある大仏とのこと。

シルクロードを南に下った四川省、川岸の崖を彫り込んで造った楽山大仏
像の高さは60m、顔の長さも15mもあり、90年掛けて造られたそうだ。

更に東に行くと、大仏が新たな姿に変わる。
龍門の石窟(河南省)奉先寺大仏。これが奈良の大仏のモデルと云われている
675年、中国の皇帝が造らせてこの大仏は弥勒仏ではなく、盧舎那仏

盧舎那仏とは、悟りを得た瞬間の姿を表し、
宇宙全体をまとめ、すべての人を光で照らして悟りへ導く最高の仏とされてる。


奈良時代、聖武天皇は大勢の民が力を合わせて魂を込めるため、
260万人の協力を募った。
平家による大仏殿の焼き討ちの際の再建で、重源は50人の仲間と全国を回り、勧進をした。
そして公慶は聖武天皇や重源の心のこもった意志を受け継いだ。
但し、公慶には聖武天皇のような権力はなく、重源上人のような仲間もいない。
ただひたすら全国を行脚するのみ。

地方の寺が秘物を公開して寄付金を集める出開帳(でがいちょう)。
仏と縁を結び来世の幸せを約束してもらう結縁(けちえん)を活用し、
大仏の実物大の螺髪(らはつ)を用いて寄付を集めたり、
大仏の古い木組みを使って小ぶりの仏像を造らせ、寄付者にお礼として渡していたとのこと。
そして7年をかけて、目標の1万1000両(10億円あまり)を達成。

元禄4年(1691年)、6年間の工事を経て頭を新しく造り変えた大仏が完成
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大仏の部位は、結縁を求める人々に応えて『ありがたい』と感じさせる意味をもつ。
手の形は、施無畏与願印(せむいよがいん)と云い、
右手は人々の畏れを取り除き、左手は願いを叶え、施しを与えることを表している。
指の間には水掻きがあり、仏の三十二相(仏の身体に備わっている特徴)のひとつとのこと。

眉間の突起は白毫(びゃくごう)と言い、
長く白い毛が生えており、それが巻かれて丸まっている状態になっている。
白毫(びゃくごう)は、光明を放って、悩める人を救う仏の慈悲の光を表しているとのこと。

大きさはお釈迦様の身長の10倍。
10倍というのは、無限を表す数字であり、
大仏の救いが無限に広がることを表現しているとのこと。
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●廣目天
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更に大仏殿再建に使用された巨木の木材の運搬は、
移動距離1300km、のべ12万人が係る大プロジェクトだったとのこと。
巨木は大仏殿の屋根を支えるため、現在も屋根裏で働いている。

大仏を完成させた元禄4年(1691年)公慶44歳の次の課題は大仏殿の再建
この建物が無ければ、大仏は野晒しのままとなる。
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しかし、大仏殿の再建費用は大仏再建の10倍以上と予想されていたが、
幕府、5代将軍・徳川綱吉が大仏殿再建に多大な支援をすることになって解決。

元禄9年(1696年)、大仏殿再建工事が始まり、
日本全国から3万本を超える木材と500人の大工が集められ、
作業に取り掛かる。

しかし、大仏殿を支える重要な木材が必要となる。
大仏殿の屋根裏にて、大仏殿の梁(はり)アカマツは300年経つも、
今も現役で働いている。

大仏殿の重さは約3000トンで、その重さに耐える巨木が2本必要だったとのこと。
巨木を求め、公慶は再び全国を探しまわる。
8年掛けて見つけたのは、奈良から遠く離れた九州・宮崎の山の中、白鳥山(宮崎県・霧島連山)。
白鳥神社の御神木は直径1.4m、一本20トンというアカマツの巨木。
宮崎から鹿児島へ陸運し、鹿児島から近畿へ海運。
更に淀川を上り、最後は奈良までの陸路にて。

宝永5年(1708年)、遂に大仏殿が完成

しかし、歴史的な大事業を成し遂げることに大きく貢献した公慶は、
宝永2年(1705年)に58歳で死去。
弟子たちにより公慶堂が設けられ、毎月の月命日12日に東大寺の全僧侶が集まり、今尚法要が営まれているとのこと。
公慶の偉業を伝えるため、300年続けられているそうだ。
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東大寺は『鎮護国家』の考えのもと造られた。
嘗ての東大寺は現在の10倍の敷地面積を有する広大なもの。
南側には七重の塔二つそびえ立っていた。
塔の高さはなんと100m。
現在日本で最も高い京都・東寺の五重の塔でも55mだから、その二倍近くもあったとのこと。

大仏殿の幅は90mで、現在の大仏殿の1.5倍もある。
大仏建立に携わった人数は260万人。
当時の日本の人口が500万人だから、半分近くが係ったことになる。
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●多聞天
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大仏殿の北東、鬼門に当たるが開けられている。

これは鬼門に溜まった悪い空気を抜くためと云われ、
くぐると無病息災など厄除けになると伝えられている。
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私も小学生の頃、そして中学生の頃にもなんとかくぐっていた。
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●如意輪観音
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中門に掲げられていた、昭和大修理落慶法要(昭和55年10月)の写真。
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中門から眺めた、東大寺大仏殿
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中門。
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中門沿いを西に進んで北側へ曲がり、
東大寺大仏殿を右手に眺めながら正倉院へ向かうことに。
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